未来終活
ワクワクする後半生の設計図を描こう
未来終活エッセイ

母を見舞う

三か月ぶりに施設に入居している母を訪ねました。​

昨今は567のせいで事前予約してからの面会となります。施設側としても頻繁に面会に来られるのは迷惑なのでしょう。​

顔を見ても、もはや私が誰かもわかりません。多分「このオバサン誰?」くらいの認識です。母の記憶の中で私は何歳の姿なのかしら。​

自分の名前すら言えません。「ふみこさんでしょ?」というと、ようやく「そうそう、ふみこです」でも苗字は出てこない。​

昔のことなら覚えているかと「お母さんのお母さんの名前は?」と尋ねてみると「・・・」​

「ここのご飯は美味しい?」と聞くと「まあまあね」​

母の日のプレゼントとして「これ、お母さんの好きな色でしょう」と藤色の綿のスカーフを取り出すと​

「まぁ、きれいな柄ね、素敵!」​

それに加えて夏用の靴下を三足差し出すと​

「そんなにたくさん!悪いから一つでいいわよ」と母らしい気遣い。感情だけはしっかり生きているのです。​

一年前まではまだ会話らしい言葉のキャッチボールが続いたのですが、認知症が進み、ボールはどこかにそれて飛んでいきます。​

一方、私の父は54歳でガンで亡くなりました。​

当然アタマはしっかりしていて、死ぬ直前には「今日が俺の命日だ」と言っていました。​

さて、双親を見て自分の末期を考えてしまいます。​

精神的には自分を保ったまま、肉体の限界が来て亡くなるのと、肉体は生きているのに自我はもはや死んだも同然なのと、どちらの方がマシだろうかと・・​

選べるものなら、あなたはどちらを選びますか?​