未来終活
ワクワクする後半生の設計図を描こう
未来終活エッセイ

長すぎる余生

中野に住んでいた頃ですからもう十年以上前のことです。

朝の通勤時、中野駅に向かって急いで自転車を走らせていました。前方に一人のおばあさんが立っています。近づくよ~という知らせのつもりでベルを鳴らすと、そのおばあさんはすれ違いざま「危ないじゃないよ~!」と思いきり睨みつけてきました。若者言葉で言えばガンつけてきたという感じで、あまりいい気持ちはしません。

何なのよ!あれは意地悪婆さんか⁉ そして別の日、同じおばあさんがやはり他の自転車に向かって私に言ったと同じ言葉を投げつけているのを目撃しました。

しかしこれには深い意味があることに後になって気が付きました。わざわざ朝の通勤時間帯に自転車の頻繁に行き交う道路に立ちふさがり、自転車を漕ぐ人間に向かって文句を言うのは、それが彼女なりのコミュニケーションなんだと。それが彼女なりの社会とつながる手段なのだと。

もちろんそのことを彼女が意識しての行動だとは思いません。ただそうすることで、一方的であっても誰かと会話しているのです。人と関わっているのです。

もう一人忘れられないおばあさんがいます。その方は私の住まいのすぐ裏にあった公園で、毎日昼過ぎから夕方までずっとベンチにいました。公園に子供たちが遊んでいればその様子を見ていたかも知れません。でも誰もいなくても何をするでもなくただいつまでも座っているのです。この老婦人の場合は人畜無害ですがいつも気になっていました。おそらくは家に居場所がないのだろうという理由がすぐに想像できたからです。

その方たちは多分もう亡くなっていると思います。しかし彼女らにとっては余生は長すぎたのではないのでしょうか。いくら豊な老後!楽しい余生!と叫んでみても、それを準備してこなかった、あるいはそうできなかった人たちにとって退屈なだけの老後はただの苦痛でしかありません。ある老人がしみじみと言った言葉が忘れられません。「私は長く生き過ぎた‥お迎え早く来んかね」

さて、あなたはどんな老後を思い描いていますか?最後まで時間を持て余すことなく、退屈しないで人と交わりながら楽しく老後を過ごせる準備はしていますか?